シンガポールの朝ご飯

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SINGAPORE BREAKFAST TEAと表記されたそのティーバッグは、なんと布でできていた。安っぽい紙とか、紐とか、ともすればプラスチック繊維で作られることもあるその、お茶っ葉をつつんでいるものが、なんと、布で!

 

シンガポールと聞いて真っ先に思い出すのは、口から大量の水を吐き出すかの有名なマーライオンではなく、中国は南京において出会ったローさんという人である。

私たちはそのときとあるサマープログラムで南京に滞在していたが、彼は多くの人に「知り合いにこういう人いる」と思わせるような顔つきをしており、雰囲気はさっぱりと明るく暖かく、顔には笑顔が絶えず人懐っこい、一言で言えば「いいひと」そのものだった。彼とわたしは曲がり角でばったり出くわすことが多くーーーと言っても二回だけだったがそんなに頻繁にばったり出くわす人も珍しいので二回という回数はとても多いように思うーーーそうやって出会うたびにお腹を抱えて笑った。各々別方向から急いできた人たちが曲がり角でうっかり衝突しそうになるのだ。お互いがお互いを認識した瞬間のその間抜けな表情とか、そもそも予期していない人の登場、しかもそれが進行方向「曲がり角」にひょっこり現れたときお腹からこみ上げてくる妙なおかしさといったら!神様が仕組んだいたずらとしか思えなかった。神様はたまに、ちょっと変わった方法で人と人とを巡り合わせるのが好きだなと思う。

 

中国に行く前と、行った後とで、何ら変化を見せない自分に絶望した、と書きかけて慌てて絶の字を失の字に書き換える。何ら変化を見せない自分に失望した。失っただけで、絶ったわけではない。だからまだうっすら希望はある。それを眺めているだけで、掴むことはできていないけれど。

相変わらず今はもう戻れない関係にある人に思いを馳せているし、妙にリアルで鮮やかで消えない思い出に苦しめられている。万が一戻ったところで、その人間関係には明るい未来を見い出せないこともわかっているのに、である。そしてその思いを吐露しようにも、「もうやめなよ」といなされて口をつぐんでしまい、過去を引きずる自分に自己嫌悪を覚えて終わる。行き場を無くした思いはお腹のあたりでぐるぐると弧を描いていつの間にかどこかに仕舞われてしまう。無くなるわけではない。あくまで自分の中にある引き出しに仕舞うだけなので、引き出しを開ければ、それは何度でも、何度でも、口をついて出ようとする。出たとしても、もやもやとした感情が晴れないかぎり、その思いは大なり小なりに複製されて引き出しに仕舞われる。そしてまた出る、の繰り返しである。どこまで行っても果てがない。

きっと、戻っておいでと言われたら私は喜んで戻るだろう。「戻っておいでと言われたら」という仮定を自らの思考に与えたとき、私ははっきりと悟った。つまりはそういうことなのだ。私は「喜んで戻るだろう」。そう思ううちはまだ、大きな後悔や未練といったものに支配されているということだ。多分。

だから新しい人間との関係を構築したとして、にも関わらず過去に引きずられてしまう未来なんて簡単に想像できてしまうし、その人の面影に過去の人を探してしまうであろう自分にうんざりしてしまう。

祟り神みたいだ。自分の体からにょきにょきと異型の何かが生え出し、熱い体温にうなされ、ある一つの大きな感情に支配されて、それに突き動かされることによってしか思考できない化け物のようだ。自分の体を食いつぶし、行き着く場所はどこだろう。美しい風景を美しいと思ったり、人の優しさにふれて癒されたり、美味しい食べ物を食べて感動したり、ちょっとした日常の奇跡にため息したり、そういうささやかな幸せを幸せと思えない生き物。安らかに眠ることさえできない、悲しき肉塊。

みんなは「人間として欠陥が多い」「変な人」「別れて正解」という人でも、わたしは大きな大きな信頼を寄せていた人だから、なかなか忘れられないのだろう。その人に何度癒されたことか!何度感謝したことか!自分の全てを委ねてもいいとさえ思えた、ように思う(脚色している可能性は否めない。いかなる過去も振り返れば美しく見えるものである)。この先こんな人と巡り合うことはあるだろうか...そう考えたとき、私の見出した可能性はゴマ粒よりも小さかった。そんなふうに恋していた相手である。あのときああしていれば、こうすれば、もしこんなことがあったら、なんていくらでも溢れ出てくる後悔に身を焦がし、ひたすら耐えて耐えてじっとしているのにももう疲れてしまった。

自分にとっての「恋人」という存在を考えたとき、あるひとつの結論に行き着いて恐怖したことがある。自分は恋人を親代わりにしていたのではないか、というのがそれである。

思えば、幼い頃から「この人は絶対安心」という存在がいなかったように思う。できることならば自分の親にそういった存在になってほしかったし、そういった存在になってくれることを切望していたようにも思うけれど、現実はうまくいかないのが常である。全幅の信頼を置きたかった。頼りたかったし、秘密を打ち明けたかったし、悲しい時には話を聞いて欲しかったし、励ましてほしかった。自分より大きなものに身を委ね、安心したかった。もっとも自分がそんな思いを抱いていたことにすら最近まで気づかなかったし、ショックなことがあったから幼い頃の記憶を捏造しているようにさえ思えるけれど。本当のところ自分がどう思っているかは、よくわからない。でも両親のことを考えると、どうにも切なくなって涙しそうになってしまうのは本当である。その涙の根源となる感情がわからないだけで。

「絶対安心」な存在があると、自分の中に常にあるさみしさが癒された。何でもがんばれるように思えた。勉強も、それ以外も。自分はその人の1番でありたいし、その人に必要とされたい、認められたいと思っていた。そんなわたし、後に「承認欲求」という言葉を知ってぞっとする。自分は醜い承認欲求をぶら下げて、自分の都合の良いように接してくれる人に甘えられるだけ甘え、その人を疲れさせ、しかしそのことには一切気づかず、ただただわがままに生きていたのではなかろうか。承認欲求をコントロールする力も持ち合わせない未熟な生き物は、好意として差し出された優しさに寄生し、甘い汁を吸い尽くし、もっとください、もっとくださいとねだっていただけではないのか。そうだとしたら...。

そうだとしたら、絶望的に救いがない。

そのことに気づいた私は、学問と名のつくものの一切を考えることをやめた。学校に行けなくなったのは、失恋によるショックや無気力だけが理由ではない。勉強してる場合じゃねえ、と思った。自分が壊れそうなのだ。そんなとき、自分の中に僅かに残るエネルギーを勉強に割くのが嫌で嫌でたまらなかった。絵をかくのならまだしも。写真を撮るのならまだしも。歌を歌ったり、人と話したり、どこかに出かけたりするのならまだしも、である。もともと嫌々取り組んでいた勉強だからなおのこと勉強する意味を見失ってしまったのも大きい。何もかも振り出しに戻ってしまうような気分。

 

すっかりお茶が冷めてしまった。シンガポールの朝ご飯はどんなだろう。パンとかシリアルとか食べるんだろうか。そもそもシンガポールってどんな国なんだろう。マーライオンと、ローさんの笑顔と、シンガポールから日本に来ていた留学生、中国語、ガムを食べることを禁じられていることくらいしか思い浮かばない。なんて貧困なイメージだ。反省しよう。

シンガポールで画像検索すると、面白いくらい大量にマーライオンが出てくる。相変わらず口からは水が勢いよく出ていて、私のシンガポールのイメージを裏切らない。

シンガポールは中国の文化と西洋の文化が混在。そんなシンガポールの人たち向け作られたのが「シンガポール ブレックファスト(Singapore Breakfast)」50g 700円。緑茶と紅茶にバニラ、オレンジピールやアジアのスパイスをブレンド。一日を通して飲んでもらえるように、またアイスティーでも飲めるようにと作られたブレンドだそうです。(All Aboutより)

なるほど言われてみれば確かに、スパイス感はあるかも。しかし緑茶と紅茶がブレンドされていることには気づかなかった...

 

ちなみにsingapore breakfastで画像検索すると、空腹時にはかなりの破壊力をもったテロとなるので諸君には十分注意されたい。よだれを垂らしながら虚ろな目でパソコンの画面を凝視しているわたしからの忠告である。

”中国の文化と西洋の文化が混在している国”と言われるだけあって、なかなかにカオスな食卓は、色鮮やかで、エネルギッシュで、見ているだけでとても楽しいですけれどね。

 

今日のBGMーー♪peppertones/Love and peace


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