読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

やる、やらない、やれる、やれない

最近、「やれるのにやらない」「やれるのにやれない」の違いを考えている。

「やれるのにやらない」、これは能力があるにも関わらず行動を起こしていない状態で、ときに怠惰とみなされる。一方「やれるのにやれない」は、持っている能力が何らかの理由によって発揮されていない状態をあらわしていると解釈できる。

 

留学していた頃、全く勉強に集中できなかったことがあって、これは自分の怠惰のせいなのかそれとも何か他の要因があるのかその両方なのか、よくわからないままモヤモヤしていた。

そんなモヤモヤふりはらって、とにかく目の前のことに集中していればきっと穏やかに時は過ぎたのだろう。世の中の「デキる」人はそういうふうに着々と物事を推し進めていける力をもっている。わたしはばかなので頭の中にある色んな雑音に惑わされ、心のざわざわをとめられず、ただただ毛布にくるまるばかりだったけれど。

 

本当は「やれる」し「やる」人なのに、ひょんなきっかけで「やれなく」なってしまう人は多いと思う。そのことに本人が気づいていたり、原因がはっきりしていたり、その原因が直ちに解決できるものであったりすればいいけれど、もしも本人が気づいてさえおらず、原因不明の虚無に対して苦しくもがいていて、けれどそれを表には出さず、周囲の人たちに対してはいつもどおり気丈に振舞っていたとしたら、それを見ている人間はきっとその人の笑顔だけしか見えないから、「ヘラヘラしてる余裕があるくせに、どうしてやらないんだ」と憤るかもしれない。その笑顔の向こうにはかすかに涙が滲んでいるかもしれない可能性には思いも馳せず。

でも、ふつうはそんな可能性、思いつかない。よほど想像力をはたらかせないかぎりは。

 

「やれなく」なるきっかけなんて単純で、実はどこにでも転がっている。「道端に転がっている小さな石に突然足をとられて転んだ」ことをハハハと笑い飛ばせる人もいれば、その瞬間かあっと頬が熱くなり涙がこぼれああなんて私はダメなんだろうとドン底まで落ち込んでしまう人だっている。それが晴れた日曜日の出来事でも。

心のコップに溢れる寸前まで感情を溜め込んで、それでも我慢して人前ではにこにこしている人もいる。それがその人の誇りだから。その人が”その人”として人前で果たすべき義務だと信じているから。

色んな人がいて、それぞれが色んな事情を抱えている。色んな正義がある。色んな信条、誇りがあって、どれがいいとか悪いとかではなく、ただただそこに存在している。

異なる心をもった生き物どうしが、それでも共に暮らしていくために、お互いの差異とどうつきあっていくべきなんだろう。

どうやったらみんなが幸せになれるんだろう。

 

自分を責めながら目に見えない敵と戦っている人、今にも溢れそうなコップを震える手で胸のうちに抱く人が、いつか心の底から安心して自分の居場所を見つけて、ほっと息ができますように。