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たまごを茹でよ、貪り食えよ(鬱日記)

https://twitter.com/rerumrum/status/528974787134373889

 

「つらいときにはたまごを茹でればよい」ーーーこれはわたしが大学に入学してから学んだ数多くの”生きるヒント”のひとつである。

 

 

…嘘です。気持ち悪いくらいに大袈裟なこと言いました。でもゆでたまごっていいですよね。真っ白ですべすべだし、黄身はぽくぽくしていて。

深夜、誰もいない台所でひとり静かにたまごを茹でる。罪なきたまごたちが闇のなかでぼんやりと白く浮かび上がるのを眺めながらぼーっとしていればなんとなく落ち着いてくるような気がするし、長くさみしい夜をたまごと共に過ごせば孤独感も和らごう。さらに嬉しいことに、調理後にはおいしいゆでたまごにもありつける。いいこと尽くめではないか。まだほかほかと温かいゆでたまごをパクリとするのもよし、冷水できちんと冷やしてから静かに食べるのもよし。ちなみに私のおすすめの食べ方はシンプルにお塩をまぶすか罪悪感を感じながらマヨネーズをぬりつけるかです。半熟にしてカレーにトッピングしてもおいしい。麺つゆを水で希釈したものにゆでたまごを浸しておけば翌朝にはおいしい味玉を楽しむこともできます。

わたしは声を大にして言いたい。すなわち、ゆでたまご最強である、と。

 

…嘘です。本当は深夜のインスタントラーメンも好きだしカップ焼きそばも好きだし玄米茶なんかもみんな最強だって思ってます。真っ暗な部屋でラジオなんか聞きながら食べたいです。窓にはきれいな月が映っているとよいと思います。

 

 

今日起きた瞬間悟った。わたしはどうやら風邪を引いているらしいぞ、と。熱がありますぞこれは熱がありますぞと慌てて体温計を引っ張りだしてみたものの計測一回目は6度8分。いやいや7度はあるでしょうよと計測二回目にのぞむと今度は6度3分などと言いやがる。しっかりしてくれよ体温計(made in Japan)。きみまでこちらの適当な文化に汚染されてしまっては私が困る。

 

最近まで「デング熱は大丈夫ですか」「デング熱対策しっかりしてください」「心配ですデング熱」とやたらデング熱推ししていた父親がようやく”エボラ出血熱”という単語を覚えてくれたのがここんとこいちばん嬉しかったことです。嘘。最近いちばんうれしかったのは人に優しくしてもらう機会に恵まれたことです。悩んでいたり落ち込んでいたりする私に声をかけてくれる人の言葉がとても嬉しく、同時にものすごく励まされています。ツイッターで愚痴を吐いちゃいけないなんてことない、それはすごくよくわかってるのだけど”負の感情”を撒き散らすような行為は往々にして迷惑行為になるよなと私は思っていて、思っているのだけど、それなのに迷惑行為をやめられない自分が情けない。直接会って話したことしかない人にわたしのツイートを見せるとよく驚かれるから普段会う人にはあまり愚痴をこぼさないのだと思う。けれど結局ツイッターに吐き出しているということは、つまりそうやって場所を使い分けることによって自分のバランスを取っているのだろう。

「つらいつらいつらい」と言っている人に対してやれメンヘラだの精神衛生に悪いだのと言う人がいる。どちらが正しいとかいうことはないけれど、前者の言葉は不快感を与えるかもしれないし、後者の言葉はあまりにも酷だし前者を馬鹿にしている感じさえする。後者側の冷たい言葉、そんなものにいちいち真っ向勝負を挑んでいたら必要以上に傷ついて落ち込んでしまうだけなのに、前者側の人間はいちいち気にしてしまって落ち込んでまた吐き出す。どこに?ツイッターに吐き出せなかったら、どこに?友達がいなければ?家族が信用できなければ?どこに?どこに吐き出すというのだろう。そもそも負の感情を持つなというのは不可能だ。どこに。自分でなんとかしなさい、もう大人なんだから、と言う人もいるかもしれない。ごめんなさい。ごめんなさい。それでもわたしはやめられない。吐き出したい。吐き出す場所がない。苦しい。「つらいつらいつらい」。

 

たまにふと、助けてほしいなと思う。自分から助けてもらいに行ったこともあった。専門家は優しい。結局は自分で答えを見つけて自分で立ち上がるしかなくても、彼らは力を貸してくれようとした。嬉しかったけれどなんだか情けなかった。「ああこんなに弱くなってしまった、」とわたしは思った。強くなりたかった。誰のお荷物にもなりたくない。自分の力だけで歩けるようになりたい。けれどそうなるまでの過程、誰かの助けを借りざるをえない自分に腹が立った。自分ひとりでやりなさい、人に迷惑をかけるな。むかし母親に諭された言葉が頭の奥の奥の方で低く唸る。あぁこんな人の助けを借りてしまった、わたしは弱いのだ、友達を多くつくれず家族とうまくコミュニケーションがとれないわたしは弱いのだ。結局1人では何もできない。本当になにもかもうまくいかない。

たとえばこんなわたしがある日自ら命を絶ったとして、周囲の人間は嘆くだろう。たぶん。わたしのことをメンヘラ呼ばわりしている人たちでさえも「あぁあのとき優しくしていれば」などと言うだろう。ふざけるな。人を非難するなら最後までその姿勢を貫けばよい。わたしが死んでも「当然だ、ざまあみろ」と言うくらいでいろよと思う。「あぁあのときああしていれば」なんていうクソみたいな感情は後悔とかじゃなく、単にわたしを非難していたことに対する罪の意識だ。そうやって自分が当事者のように勘違いして陶酔しているだけだ。 結局何もする気なんかなかったくせに「あのときああしていれば」なんて言うのはずるい。

ずるいよ、と頭の中で叫んでベッドに倒れ込む。睡眠も栄養も足りてない。気の休まるときがない。でもきっと日本に帰ったって状況は一緒だし、友達は少ないけれど授業が楽しいからアメリカにいるほうが数百倍幸せのような気もする。大学に帰りたいとか、思うんだろうか。全然わかんないや。帰りたい場所がないってなんだかさみしいな。

ステイ先の親戚のひとが「むずかしいこと考えないで、今を楽しみなさいよ、若いんだから」と言っていた。でもわたしは悩んでしまう。もう少し、もう少しだけ考えたら、そのあとはーーー。できれば元気になりたいな。そしたら帰りたい場所だって見つかるかもしれない。