僕と鼻

僕と花、という曲が聴きたくなって立ち上げた動画サイトの検索窓に「ぼくとはな」と入力したところ思わぬ方向に予測変換されたので思わず吹き出してしまいそのせいで勢い余った私の薬指がエンターキーを強打、結果として白く細長い入力スペースには頼りなげに「僕と鼻」という文字が踊ることになったとかいうべつに面白くもなんともない前置きはこのくらいにして。

いや待って。僕と鼻って存外面白くないですか?鼻って誰の鼻なの、とか鼻に何があったの、とかつっこみたくなるし疑問を抱かせるのが”僕”じゃなくて”鼻”っていうところも腑に落ちない。”僕”って誰、と思ったってべつに普通なのに、そういう思考の一切をおさえて”鼻”が先行するのがずるい。僕と鼻、僕と鼻ですよ。なにより語感がシュール。っていうかぁそれどんな曲、どんなミュージックなんですかぁ!?!??とか下らないツッコミを考えるのもこれくらいにして。

 

悩んでいたり苦しんでいたりする人に、1人で立ち直れというのは適切だろうか。

…とかいうことを最近ずっと考えていて気が滅入っている。

どんな考えに至っても「ああ言えばこう言う」でたちまち脳内で論破がおきる。結局は自分の好きなままに考えればいいじゃんと思うのだけど。

わたしに関して言えば、できるだけ手を差し伸べたいと思っている。完全に自己満足だ。けれど誰かに手を差し伸べてもらったときに感じる言いようの無い安心感を知っているから、お節介を承知でついつい人助けしたいななんて思ってしまう。

甘やかしているだけかもしれない。助けてなんかいないのかもしれない。それでも心配で、どうにかしてあげたいという気持ちが勝ってしまうのだ。

けれど同時に「助けてもらいたい」と思っている人にも物申したい気持ちがある。考えて文章にするのが面倒なので詳しくは書きませんけれど、ひらたく言えば「わがまま言うんじゃない」とビシっと言ってやりたいような気持ちだ。

そんなこんなでわたしの偽善行為は非常に気まぐれだ。人を心配する気持ちは変わらないけれどアクションを起こすのは自分に余裕があるときだけ。自分が潰れてしまっては人に力を貸すこともできないので自分はいちばん大切にしようと思っている。

それにしても人助けっていう言葉、なんだか驕っているような印象さえ受けるなぁ。人を助けたようでいて実は本当に助かっているのは自分自身なのかもしれない。

 

余談。

先日タイムマネジメントに関するレクチャーを受ける機会があった。一日の時間の流れを把握するだとか、行動のチェックリストを作るだとか、その行動に優先順位をつけて動くだとか。そういうことは今まで腐るほどやってきたはずだしべつだん新しいテクニックを学んだわけでもないし、むしろ自分はそのレクチャーを上から目線で聞き流すような態度さえとっていたのに、レクチャー後にはそういったことを実践して以前よりも時間を有効に使っている自分がいて我ながら情けなくなった。いくら偉そうに”わかっている”と言えたとしても、その知識を持て余していた自分は慢心しきっていたのだ。驕っている自分が醜く見えた。

そろそろ中間試験が始まるし、がんばらねば。