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忘備録1

とある企業の面接を受けた。

一回目にアポをとったときは先方から開始1時間前になって「今からこれる?」とかいうメールを送ってきてむかついた。学生だから暇だ、とか思われてるんだろうか。確かに学生は暇だ。それは認めよう。私とて例に漏れず暇な学生である。しかし暇な学生でさえ、相手を気遣って1時間後の約束を「今からこれる?」なんて言ったりしない。友達ならともかく得体の知れない人物にこんなことを言おうものなら「常識がない」と思われるに決まっている。だから常識的に考えて「今からこれる?」を1時間前に言ってくるなんて、どんなふざけた野郎なんだと思った。

二回目にアポをとったとき、今度は「今日の午後でもいい?」というメールがその日の午前中に送られてきた。その日にその日の約束…ギリギリ許せるか許せないか怪しいラインだが、まあ1時間前よりはマシだし、よしとしよう。で、実際その時間がきたとき、私は常識ある人間なので常識的によしとされている「15分前待機」を実行した。ところが5分前になっても音沙汰がない。5分過ぎてもない。10分、15分、20分……どんだけ待たせるんだよ!と思った矢先、ようやくその人が現れた。さて気になる先方の第一声はというと、

「ごめんなさい、気づかなくて……」

 

えええ………。

まじか。社会人まじか。入社後に「マナー研修」なるものを受けるらしい社会人まじか。これが社会人。これが社会の常識。そうなのか!?!??

いや、、、勘弁してください。

 

(こんだけ非常識なことしておいて、面接中向こうが一度もニコリともせず常に上から目線だったのもアレだった。まあでも面接自体こちらから頼みこんでのことだったし、無愛想だったことそれ自体は別にいいんだけど。でもだからって最低限のことをやれないのはほんと、どうなんだろう)

 

怖いのはこれがベンチャーとかじゃなくちゃんとした上場企業ってことです。

(みじかい日記)いまから百年後に

いまから百年後に

私の詩の葉を  心をこめて読んでくれる人

君は誰かー

こんな一節から始まる詩がある。インドの詩人、タゴールの『百年後』という詩である。

この詩を知ったのは母校での教育実習中だった。私が現役JKだった頃在籍していた合唱部がコンクールでこの詩の歌をうたうらしく、部活見学に行った折に知ることとなった。

詩も素晴らしいし、それにつけられた旋律もとても素晴らしくて、ああ、これを女声合唱で歌ったらすごくいいだろうなあ……というかんじだった。

どんなふうに詩が素晴らしいか、ということは「とにかく読んでください」の一言に尽きる。個人的には『春はあけぼのショック』以来の衝撃を受けた。『春はあけぼのショック』とは高校生の時に私が『春はあけぼの』を勉強した際にその世界観や清少納言の感性に衝撃を受けたことを指す。タゴールとはおそらく、非常にしなやかな繊細さをもっており、音、光、色、温度など、自然界のあらゆるものの観察眼に長けていた人物なのではないかと思う。少なくとも私にとってはそう思わせる作品だった。

 

来週、この歌の生演奏を聴きに行くのでとても楽しみ。

 

(最近長文を書く体力と忍耐力がないので、「みじかい日記」)

あなたとわたしがつながるせかい

美術館に行くのが好きだ。

そんなに足繁く通うわけではないけれど、時々無性に行きたくなる。芸術の鑑賞の仕方は正直よくわからない。だけど確かに「なんとなくうけとるもの」はあって、美術館に行くのはそれを得るためのような気がする。それから、いろんな色や形があるのもいい。見ているとなんとなく脳が喜ぶのがわかる。たぶん本能的に、わたしは芸術を愛している。心の奥底の一番大事な部分、そのなかにある小さな引き出しのなかに芸術の居場所があるように思う。

だからだろうか、美術館で作品を見ているとき思考していることはあまり他人にひけらかしたくない。自分の一番大事な部分、ともすれば一番弱い部分を剥き出しにするのはためらわれる。そこが傷つくのは避けたいと思う。

そんなわけで誰かと一緒に美術館へ行っても気の利いた感想など言えないのが常であり、しかもそれでいいと思っていた。とりあえず適当に「すごいねえ」と言っておけばあとは相手が勝手にその人の価値基準にあてはめてわたしの「すごい」を解釈してくれるに違いないし、その人の「すごい」とわたしの「すごい」に差異があったとしてもまあいいやと思っていた。それにそのくらい適当で無責任でも、その場をやりすごすことは十分できる。そもそもわたしは他人と「わかりあう」ことを放棄しているのかもしれない。

蜜のように甘い”美の記憶”は独り占めしたい。「わかりあう」なんてまっぴらごめんだぜ(と思いつつどこかでは「わかりあいたい」と切望しているし「わかりあえない」とひどくさみしい)。

………とまあ、このようにとても面倒な性格をしたわたしなのだが、だからこそ最近起こった出来事は新鮮だった。

その人のことは今もよくわかっていない。好きな食べ物も誕生日も知らない。何が好きで何が嫌いで、普段どんな時間の流れの中で暮らしているかもわからない。けれどなんとなく、芸術に関しては全幅の信頼を置いている、という人である。

ひょろりとしていて、常に穏やかで、淡く霞む春のような雰囲気をまとっているその人を、美術館に行きましょうと誘った。特に深い理由はなくて、なんとなくおもしろそうだなと思ったから。他の人にはきっとそんなことしないと思う。その人とだからしたい、と思った。

作品を見ている間は基本的に黙っていたのだが、ときどき「これは!」と思った作品があって、そんなときは2人にしか聞こえないような小さな声で思ったことを言い合ったりした。そのとき自分でびっくりしたのが、驚くほど素直に自分の感じたことを伝えられたことだった。その人への信頼がそうさせたのかもしれない。きっとこの人になら変なこと言ってもわかってもらえる、と根拠はないけどそう思った。それに実際、なんとなく伝わっているように思った。その人の感想をきくのもとても面白くて、こんな楽しみ方もあったんだなあと、美術館を今までより好きになった。

美術館を出たあとは2人で歩きながら他愛のない話をした。風が強かったけどぽかぽかあたたかくて、話をするのは楽しくて、なんだか懐かしいような嬉しいような気持ちになった。途中、たぶんカップルに間違えられてマンションの勧誘をうけたり、道に迷ったり、行きたかったお店が閉まっていたり、水で擦った炭のような色をしたカレーを食べたり、一緒に絵を描いたり、また歩いたり、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだり、本を読んだりした。本を読んでいるときちらりと横を盗み見ると、いつもはふわふわとしている雰囲気がきりっと引き締まっていて少しどきっとした。それからほどなくしてお別れの時間がきて、ではまた、を言い合って、その人は人ごみの中に消えていった。

わたしは小さく手をふって、それから来た道を少し引き返し、色とりどりのモノがひしめくお店の間をぶらぶらと歩きながらその日のことをぼんやりと思い返した。

また会えるだろうか。

ひょんなことから細くつながったこの縁が、今日よりもっと先まで伸びていて、そこにはもっともっと楽しいことがたくさん待っていますように。

相手が同じことを考えているかどうかはわからないけれど、自分1人だけのエゴな願いかもしれないけれど。またつながれたらいいな、と願わずにはいられなかった。

When I was seventeen

"Oh! May girls be happy."とは、わたしが通った女子校のいわばスローガンのようなもので、夏の文化祭のポスターなんかによく書かれたりしていた。なんでこんな言葉が?と不思議に思われるかもしれないが、あんまり詳しく書くと身バレしそうなので深く追及はしないでおく。

そう、女子校。わたしは高校時代女子校に通っていた。と言うと「えっみかげちゃんが!?男の子でも女の子でもあんなにフランクに楽しそうに話せるコミュ力おばけのみかげちゃんが!?!??」と言われることもあったけれど、それはわたしがたまたま同性異性を問わず畏怖の念を抱かない女子校出身の女性だからだという話で、つまり女子校の女子高生に関するステレオタイプは必ずしも女子校の女子高生全員に当てはまるわけではないというわけだ。当たり前だけれども。

わたしの全盛期はその女子校でセーラー服を纏って過ごした17歳の頃だったと思う。普通に過ごしていれば男子高校生とは全く縁もゆかりもない生活を送るわけだから恋愛経験には乏しかったが、まあそれでも多感な時期ゆえ色々と挑戦しては失敗を繰り返したり(つまり片思いの連続であった)、今思い返してみると懐かしいやら恥ずかしいやらである。恋愛でおいしい思いをすることができなかったわたしは「ああ、わたしってモテないんだな」「慎ましく生きよう」「ブスは黙れよ」等々自分に言い聞かせて大学に入ったのだが、その後自分の意に反して恋愛にまつわる様々な珍事件が起こったので人生というのは何が起こるのか本当によくわからない。今となっては17歳の自分の肩をぽんとたたき「まあ、焦るなよ」の一言でもかけてやりたい気分である。そのままジタバタしていれば数年後にジャニーズ系の爽やかイケメンと付き合うことになったりしなくもなくなくなくない!?!??

…さて、そんなわけで恋愛においてはしょぼんな感じの17歳だったわけだが、肉体的にはまさしく全盛期だった。当時のわたしといえば髪の毛はつやつやのさらさらセミロングで、身長も167センチとそこそこに高く、ほどほどに痩せており、加えて脚が結構長かった。今となっては見る影もないが、当時は周りのイケイケ女子に「……あれ、さくらい氏、スタイル良くね?」と言わしめていたほどである。脳みその方もフル回転させていたようで、定期試験も毎回10番台だったし、英語に関して言えば必ず学年トップ争いにくいこんでいた。それで一応部活もやっていたので、私にしてはまあまあ頑張っていたと思う。

そんな時代、笑ったり泣いたりムカついたり毎日めまぐるしくキラキラしていた日々、が確かにあったのだと思った。『17歳だった!』の読後感はそういったものだった。わたしは読書感想文とか、そもそも文章を書くのが上手じゃないのであまりうまく言えないのだけれど……必ずしも同じ時代を生きていなくとも、同じ事件を体験していなくとも、17歳という通過点で感じるものは人間が人間として感じるものなのだなあと、そしてそれは17歳特有の未熟で清々しい何かなのだなあと、そう思った。

わたしのどうでもいい昔話ばかりになって申し訳ないが、17歳のときの思い出として絶対に忘れられないなあと思うのが、音楽の授業の最終試験である。ど田舎の、ではあるが進学校に通っていたので音楽の授業は2年までで終わりだった。それで冬に最終試験をすることになったのだが、先生いわく「何をやってもよい。リコーダーを吹くでも演歌を歌うでもよい」とのことだったので、ロックバンドかぶれだったわたしはすぐさま「ギターで弾き語りやりたい!!」となった。その欲望自体はいいとして、問題は弾き語りをするどころかアコギさえ持っていない弾いたこともない状態だったということだ。つまりは超のつく初心者だったのである。ちなみに音楽の先生には「今からァ?」と渋い顔をされた。準備期間はおそらく一ヶ月ほどだったし当然だと思う。しかしどうしてもやりたかったのだ。歌については合唱部だったので問題ないと判断した。アコギを買おう。簡単なコード3つくらい覚えれば弾けるでしょ。と根拠のない自信を根拠にすぐさまアコギを買い練習を始めるのだが、これが予想に反してなかなかに楽しかった。ギターにおける才能があったわけではなく、憧れのギターを買ったこと、それを弾けること、が純粋に嬉しかったのである。嬉しくて嬉しくて暇さえあれば毎日練習した。背負って学校に持って行くときは誇らしかった。興味のない人にとってはたかがギターなのだがわたしにとっては宝物だった。それさえあればどこにでもいける気がしたのだ。なぜなら17歳だから!

そうして迎えた本番、手は震えるし声も震えて、せいぜい30人くらいの前で歌うだけなのにうまくいかなくて……それでも必死に気持ちを乗せて歌い上げ、最後のコードをじゃかじゃんと掻き鳴らした途端にワッと歓声が上がり大きな拍手をもらった。ライブにやみつきになるミュージシャンの気持ちとはああいうものだろうか。あのときのなんとも言えない嬉しい気持ちは今後二度と味わえそうにないと思う。

…と、めまぐるしい青春の日々を走馬灯のように思い出すことができたのもひとえに読書のおかげである。恥ずかしながら本を読んだのは久しぶりだったが非常に楽しむことができ、その証拠に声に出して笑う場面も多々あった。というか声に出して笑う内容で丸々一冊構成されたような本だった。頂き物の本だったので、なんとなく本と贈り主とが重なるような気も……。と言ったら怒られちゃうかな。でも、本から滲み出る愛おしさのようなものと、贈り主に対して抱くどこか温かいような気持ちと、通じるところがあるように思ったのです。なあんて、偉そうに言う資格はわたしにはさらっさらないのですが。所詮は若輩者の戯言なので、なにとぞ、なにとぞ。

 

十七歳だった! (集英社文庫)

十七歳だった! (集英社文庫)

 

 

 

 

あこがれの場所

小学校高学年のとき。いじめられていて、以前は仲が良かった友達とのつきあいがめっきり減ってしまったわたしはインターネットに逃げた。今思えば逃げる場所があっただけよかったと思う。インターネットはわたしの心を大いに癒し、救ってくれた。

当時のわたしがネットで何をしていたかというと、大体はオンラインゲームだった。ゲームをしながらプレーヤー同士がチャットで気軽にコミュニケーションをとることができ、同年代の人間との交流に飢えていたわたしはすぐに夢中になった。そして気づくと関西の各地に友達(男の子)ができていた。特に兵庫と大阪の人が多かったように思う。

テレビ以外で初めて触れた関西弁は衝撃だった。おそらく本能の部分で、わたしは彼らの使う言葉を好きだ、かっこいい、と思った。最初はチャットで話していて、そのうち本当になかよくなった人とは電話もした。電話をするのは最高にどきどきした。親のいないところでこっそりする電話だった。受話器の向こうからは声変わりしたばかりの低くて快活な声と、それに混じって車の通る音なんかも聞こえてきた。都会なんだな、と勝手に想像して憧れた。逃げた先に辿り着いた場所だからというのもあるし、実生活では得られない、人とのつながりをくれた友達の居るところだからというのもある。けれどそれらを遥かに超えて、何より言葉が好きだった。彼らと話せば話すほど、関西への憧れが募っていった。

あれから何年か経って、今や名前も思い出すことができないその人たちのことをふと旅先で思い出した。大学受験時まで心のどこかで抱きつづけていた憧れ。それが向けられた関西の地をわたしは旅していた。大学は本当は京都に行きたかったこと、関西人の恋人がほしいと思っていたこと、関西出身の大好きなバンドのこと…。様々なことが頭をかけめぐったが、とりわけ何度も考えてしまうのはネットの友達のことだった。もっとも名前すら覚えていないのだし、何度考えたって情報不足なせいで結論はいつも一緒だし、そもそも考えること自体まったく不毛な行為ではあるのだが。

しかし彼らは、長い人生のうちのほんの一瞬でも、本当に大切でかけがえのない存在だった。顔を見たこともないのに恋をしたこともあった。わたしを好いてくれた人もいた。「他の人と結婚しても、おれはずっとずっとみかげのこと好きだ」なんて台詞、言った本人絶対覚えてないだろうなと思う。大人になった今なら馬鹿馬鹿しくも恥ずかしくも思える言葉だけれど、当時のわたしにとっては心が震えるほど嬉しくて、生きる希望そのもので、おかげで現実では友達がいなくても毎日がんばれるように思えた。そして実際がんばることができた。「ネットにはわたしを好いてくれる人がいる」という揺るぎない確信。それがあったからこそわたしはあの時期を耐えられたのだ。だからこそ大事で、不毛だとわかっていても繰り返し繰り返し想ってしまうのだろう。

せめて、「あのときはありがとう」を言えたら。

いつかまたどこかで会えるだろうか。お互い全くの別人になっていても、笑顔で会えるといい。そんなことを考えながら、あこがれの場所での時間は過ぎていった。

 

ゆくとしくるとしぼっちめし

ハローハロー、こちらカリフォルニア。現在12月31日の夜でございます。最低気温4度、最高気温は13度。もうすっかり冬ですね。遥か彼方に見える山々はうっすらと雪化粧をしていました。

日本で大晦日を迎えていたころ、つまり昨日はえっさほいさと引っ越しをしていたわたしです。ハウスシェア(というかホームステイというか)をしていたんだけど、学校から遠いのと家賃が高いのとで引っ越しすることに。一緒に住んでいた韓国人ファミリーとは最近やっと仲良くなってきていたのにな、と思うとちょっと残念。お別れはいつも悲しい。

新しい引っ越し先は学校から徒歩5分という最強の立地を誇るお家で、今度はアメリカ人の学生とルームシェアをすることになった。今までの人生のなかで、ハウスシェアや身内とのルームシェアをする機会はたびたびあったけれど赤の他人と長期間ルームシェアというのは初めての経験なのでどきどきしている。同じ部屋に暮らすことになるルームメイトはとても良い子で、わたしに気を遣って家の掃除をしてくれたり、ご飯に連れて行ってくれたり、日本に関する話をしてくれたりした。ありがたい。特に、”日本に関する話をする”というのは誰でもできる(してくれる)ことではない。わたしに理解を示そうとしてくれているという姿勢が強烈に伝わってきて、もしかしたら彼女は意図せずそういう行動をとっていたのかもしれないが、とにかく優しくて親切な子なのだなと思った。彼女の専攻はfilm studyという、ざっくり言えば映画の脚本を読んで云々かんぬんという勉強らしく、わたしは映画は詳しくないけれど興味はあるから話は合いそうだし、かわいいキャラクター(リラックマみたいなゆるいかわいいキャラ)が好きだというところでも性格が合いそうだった。なによりありがたかったのは、干渉しすぎず、かといって無関心でもなく、という心地よい距離感をとれる人だったということだ。日本からのお土産だよと言ってベルンのミルフィユ(わたしの大好物)といちごポッキーを渡したらすごく喜んでいた。日本からのお土産貰うの初めて、とか言いながら。そんなこと言われると緊張するよ!わたし、日本からの大使みたいね!って言ったら笑ってくれた。とにかくいい子なのだ。

ルームメイトは事情があって実家にかえってしまって、昨日は引っ越し先で1人だった。音楽を聴きながらカップ麺(あかいきつね)を啜る。ぼっちめしである。フォークでうどんを食べたのは昨日が初めてだった。頼りないスチロールの容器にいつか穴でも開けてしまわないかとびくびくしながらうどんを口に運ぶ。カリフォルニアの水で作っても、うどんはおいしいうどんのままだったのでちょっと安心した。

いつもは雨なんて全然降らない砂漠ってかんじの土地なのに、昨日は嵐だったようで雨と風が吹き荒れていた。

今年は山あり谷ありモハメド・アリだったけれど、きっと来年はすごく良い年になる予感がしている。おじいちゃん、見ててよね。わたしがんばるよ。きっと自慢の孫になるよ。

 

それではみなさま、良いお年を。

脱走劇

自分の気持ちなんて本当の意味ではだあれもわかってくれやしない。

けれどごくたまに、気持ちを”汲んで”くれるひとがいる。だから期待してしまう、そんなやさしい人が目の前に現れることを。

 

祖父が亡くなった。と書くのは二回目だ。ものすごい衝撃を伴った出来事だった。詳しくは書かないがふつうの死に方ではなかったし、そうでなくたってお葬式などを含めた色々はとても人を疲れさせるものだし、加えてつぎつぎと新しい問題がでてきたりしてあれやこれやでドンチャカせざるを得なかったためにふつうに疲れた。お疲れ、わたし。

祖父の気配を感じるのはさみしかった。どこかからひょっこり顔を出してきて「いや〜〜危なかった」等と言いながらにこにこしている祖父を想像するのは簡単だった。けれども祖父はたしかにいなくなったのだ。はじめて祖父の顔をさわったけれどそれはひどく冷たい蝋人形のようで、人というよりはただの抜け殻と呼ぶのがふさわしいと思えた。気丈に振る舞う祖母は、しかし明らかに一回りも二周りも小さくなっており、見ていていたたまれなかった。何かにつけて祖父の思い出話ばかりしているのもかなしかった。

仙台に移動したあとはアパートにひたすら引きこもって押し寄せる孤独感と戦っていた。「すべては気の持ちようなのだから”がんばろう”と思えばがんばれる、甘えるな」という人は松岡修造を目指せばよいと思う。彼の言っていることは正しい。だが問題なのはいかにして”がんばろう”と思うか、というよりどうやって”がんばろう”と思えるような精神状態にもっていくか、その過程、だと思う。コンディションを整えなければわたしはがんばろうだなんて思えない。

つらいときはつらいものと向き合うより、他のことで頭をいっぱいにしてしまいその間自分の記憶を冷却するのがよいのかもしれない。さいわい人間の頭には忘却機能が備わっているので、気持ちに蓋をしたとしても時間の経過とともに記憶が多少薄れていき思い出したときのダメージは小さくなる、と思う。

私は1週間以上も仙台にいるべきではなかったんだろう。1人になりたい一心で故郷から逃げてきたけれど、来る前よりも元気がなくなってしまったかんじがする。そしてそんな状態でまたアメリカに戻らなければならない。

最近一緒に暮らしているお姉ちゃんがすごくイライラしていて冷たい。わたしの態度も問題なんだろうけど、やっとこさ快適一人暮らしライフを満喫できるかと思ったら私が舞い戻ってきたのも問題なんだろう。でもそういうのも、もうすぐ終わりだ。